到達目標と講座概要
700年の歴史と変化を通して学ぶ、「現代に生きる能」の魅力
本講座では、「春秋座―能と狂言」シリーズで上演されてきた演目から1曲をとりあげ、その映像を用いて「能」という舞台芸術の特色と魅力を伝えます。今回取り上げるのは世阿弥の『山姥』です。本曲は山姥という妖怪の怪異性に関心が集まりがちですが、本講座では、テキスト、演出、素材、逸話などから多角的に、作者世阿弥の「作意」を考えます。なお、第3回の講義には観世銕之丞氏をゲストに迎えます。また、今回も能に関心を持つ多くの方の参加を期待しています。
■『山姥』読解のポイント
①都の女曲舞(くせまい)舞い(ツレ)は、『山姥の曲舞』で評判を得たために「百万(ひゃくま)山姥」と呼ばれているが、この不思議な名の由来について。あるいは、『百万(ひゃくまん)』のシテ百万との関係など。
②曲舞あるいは曲舞舞いとはどのようなものか。あるいは曲舞と能との関係について。
③本物の山姥が都の女曲舞舞いの前に現われるという設定になっているのはなぜか。
④山姥が語り舞う『山姥の曲舞』ではいかなることが説かれているのか。
⑤『山姥の曲舞』はもと独立した曲舞(謡い物)で、それに中心にして能に仕立てたのが世阿弥だという見解があるが、そう考えてよいかどうか。
⑥『山姥の曲舞』の冒頭と末尾にある「よし足引きの山姥が、よし足引きの山姥が、山巡りするぞ苦しき」には、きわめて凝ったレトリックによって『山姥』のテ-マが集約されているが、ここはどのように口語訳すればよいか。
⑦山姥の化身(シテ)は、前場でも後場でも輪廻に捉われた存在として登場するが、彼女ははたして輪廻から脱することができたのかどうか。
⑧山姥の「山巡り」はなにを象徴しているのか。
⑨「移り舞」は『井筒』などにもみえる言葉だが、『山姥』ではどういう意味で用いられているか。
⑩『山姥の曲舞』の後半で語られる山姥の善行は作者の創作か、それとも当時の民俗的伝承なのか。
⑪『山姥』はこれという典拠のない「作り能」と考えられているが、そう考えてよいか。
⑫境川から善光寺までには三つの道があること、上路(あげろ)越えの情景が比較的詳細なことは、作者に善光寺詣での体験があったことを想像してもよいか。
⑬『山姥』にみえる「世上万徳の妙花」「邪正一如」は世阿弥の能楽論にもみえることについて。
⑭山姥の正体について語る所の者(アイ)はきわめて愉快な内容だが、このアイの文句は類型化される前のアイの面影を伝えているとみてよいか。
⑮『山姥』の主題はどう考えればよいのか。