到達目標と講座概要
「用心棒日月抄」の全文完全音読
奥の細道、平家物語、徒然草、たけくらべの、古文4作品の全文完全音読をし終えて、去年、5年ぶりに藤沢周平ワールドに戻ってきました。そして、その代表作の一つ「三屋清左衛門残日録」を丸1年かかって完全全文朗読を達成しました。藤沢ワールドで言えば、例えば、全10本の短編作品を集めた「橋ものがたり」に代表される「江戸市井モノ」とか、「隠し剣鬼の爪」のような「秘剣・剣客モノ」といった短編を中心にこれまで講座を進めてきましたが、古文授業のとき、「平家物語」は、1年(4季20回)。「徒然草」は2年(8季40回)のロングスパンで授業計画を設定し、受講生のみなさんもそれにしっかりとついてきてくださいました。長期スパンだからこそできるその「一作品の完全全文朗読」の「達成感」は格別です。三屋清左衛門のあと、今年は用心棒シリーズから「用心棒日月抄」を取り上げることにしました。めっぽう強い用心棒青江又八郎の活躍のみならず、なぜかそこに赤穂浪士のあの物語が絡むという名ストリーテラー周平さんの面目躍如の一冊。さあ、どう読むか!
アナウンサーが、他人に何かを読んで伝えるという作業は3つあります。ニュースで記者が書いた原稿を読む場合、と、番組でディレクターが書いた原稿を読む場合と、作家が書いた作品を朗読する場合、の三つです。記者やディレクターが書いた原稿を読む場合、一つは「時間の制約」の問題があり、一つは「分かりやすさの追求」の問題があります。つまり、一定時間内に収まらない場合や、そのままでは到底理解できない場合は、記者やディレクターが書いた「原稿」は「そうでないように」、変えていいのです。何と言ったって、記者やディレクターは「自分の同僚」だからです。でも朗読の場合はそうはいきません。作家は命を削って、一字一句を紡ぎ出しているのです。記者やディレクターも命を張っているかもしれませんがプロの作家のそれとは自ずから差があります。私の授業で私が文芸作品や歴史モノの「全文完全朗読」に拘ってきたのは。まさにその一点に拠ります。
私が当学舎で朗読の時間を開講するにあたって、プロの作家の手による文芸作品や歴史作品を前にして自分に厳しく課してきたことは、その作品の一言一句を疎かにせず、そのまんま、書かれてあるままに、その通りに読む、ということでした。時間が足りないからこの数行はカットしようとか、この章や段は飛ばしちゃおうとか、分かりやすくするためにここはこう表現を変えてみよう、などとは死んでも考えない、ということでした。NHKのラジオ深夜便で、蝉時雨や三屋清左衛門や用心棒日月抄などの藤沢作品の長編を読んだ時も、一切の音楽無し、一切の効果音無し、一切の擬音なし。私の声と間(ま)と息遣いだけで、全文を『そのまんま』読むことに徹しました。それが「松平朗読」の特色になりました。そのことに同意してくれた担当ディレクターや当時のラジオ局首脳には大いに感謝しています。作者へのリスペクト、これが朗読の根幹になくてはならぬと思います。
例えば歳末恒例の「第九」の演奏。「今日の小澤征爾はすごかった」「カラヤン、素敵!」—多くの人はそういう感想を持ちます。その通りだと思います。指揮者の解釈と感性と技術が、その演奏会の評価に大いに関係します。一旦、作者の手を離れたら、あとは「指揮者や演奏者のモノ」という考え方も勿論あるでしょう。でも、私はやっぱり思います。「一番はベートーベンだ」と。彼がいなかったら、あの作品はこの世になかったからです。何にもないところから彼は「あれ」を「作り出した」のです。—どうして作者はそこに読点をつけたのか。句点をつけたのか。どうして作者は「その言葉を選んだのか」。作品を前にして、「この読みでいいですか」という作者との事前の対話の繰り返しこそが朗読の醍醐味だ、と私は思います。
※本講座は、京都芸術大学 履修証明プログラム「朗読2」に該当します。